六斗 22.12.19(日)

先日の続きで六斗へ。

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 六斗の森から下に降りて、台地下の道を森の里方面へしばらく行くと、道の脇に祠があります。冠をかぶっていられるようで、天神様のようです。

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 さらに少し行くと、上に上る道がありますが、その曲がり角に、久松家の霊堂があります。 江戸初期にこの地に移住してきた久松家の初代のご夫婦の像及び当時持参したという阿弥陀如来坐像が祀られているそうです(町史P301)。久松家は茎崎村の「名望家」で、村会議員などを輩出しており、酒造業を行っており「和か松」というお酒を造っていたそうです。

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 道を上った三叉路のところに六斗の集落センターがあり、周辺の石造物が集められていました。

 六斗という地名は昔は六斗蒔ともいったそうですが、Kさんのお話では、六斗の籾を蒔けば足りる程度の集落だったからといわれていたそうです。

 他県や他の地域でも六斗とか五斗蒔という地名がありますが、田畑の収穫高表示法の一つで、町反歩や石高で示す代わりに、その田畑に蒔く種籾の量によって何合蒔、何升蒔あるいは何斗蒔と称していたそうです。
 田植えのできない泥深い田圃では、直接種もみを蒔いたことと関係があるのではないかとも考えられます。

 いずれにしても数軒の集落であったようです。

 さて、道を左に六斗の森の方へ、十月桜が咲いていた路地を過ぎ、しばらく行くと、きれいな青面金剛像がありました。

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 Kさんには、また来年もお願いして、今年の茎崎めぐりは終わりです。

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六斗・九万坪 22.11.18(木)

 今日は、六斗の森からスタート。

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 六斗の森の入り口付近には、馬頭観音の石碑とザガマタ・・①がありました。付近には、愛犬のお墓があり、いわゆる畜生塚なのでしょう。

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 九万坪のほうに歩いていった分かれ道には、矢印のついた道標とここにも馬頭観世音の石碑・・②がありました。

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 九万坪の集落に向う十字路の右側には、藁宝殿・・③、左側には、道祖神とまだ新しいザガマタ・・④がありました。

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 九万坪の集落の中には、三峯神社(大正元年8月19日建立)と愛宕神社(大正元年8月24日建立)を合祀したお社・・⑤があり、その隣には弘法大師をお祀りした祠・・⑥がありました。

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 ちょうど畑で仕事をしていた方がみえて、色々教えていただきました。ここは、従来、庄兵衛新田であったところ、大正元年に、数軒で移住してきて、お祀りしたものだそうです。また、庄兵衛新田から九万坪に名称が変更になったのは平成の初めのころだったそうですが、名前の由来は、ここが約30町歩あったので、坪換算で九万坪になったそうです。

 付近は高台になっており、九万坪遺跡(縄文、古墳、奈良平安、近世)と九万坪館跡(中世の城館跡)があったそうです。付近の埋め立てにだいぶ削られてしまったそうですが、当時は、土器がたくさん出土したそうです。

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 ここから、台地下の道を通り、途中で、12万年前頃の貝層などをみて、六斗の森に戻りました。

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歩いて発見!茎崎めぐり 22.10.17(日) その2

 泊崎には見どころがいくつかあります。泊崎城址、弘法大師堂そして牛久沼の風景などです。

牛久沼に突き出した岬の先端近くにあった泊崎城は、富士見台団地の造成により、滅失してしまいましたが、城郭に関するホームページである『余湖くんのホームページ』に、復元図が、アオレンジャーさんの「北緯36度付近の中世城郭」に航空地図が掲載されています。

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 応永3年(1396)に小田氏の一族であった岡野康朝によって築かれたといいますが(村史P280、なお、大正5年の稲敷郡志にも同様の記載があります。)、後に、下妻の多賀谷氏が砦を築き、岡見氏滅亡の一因となったようです(町史P113など 岡見中務大輔宛、北条氏照書状天正15年(14?)3月14日)。 

 さて、この岬の先端には、泊崎の大師堂があります。伝承では、大同元年(806年)に、空海上人(後の弘法大師)がこの地にみえて、千座護摩を修したと伝えられており、そのときの、護摩の灰で作られたという弁財天像が残されています(前に紹介したように、現在は、守徳寺にあります)。

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 実際には、その頃、空海上人は、唐から帰朝したばかりで、都にいたようですが、上人に所縁のある方が、都から見えたのかもしれません。

 牛久沼は、茨城百景に選ばれており、ここに、石碑が建てられており、また、ここからの景色は、泊崎夜雨として牛久沼八景、そして泊崎逆松として十二景とも言われているそうです。

 稲敷郡志では、その景色を、「陸地長く西北より起り牛久湖中に突出し右に秩父の連峯芙蓉の白姿を望み左に日光筑波の青巒(せいらん)を指さし前方に婉々たる常磐線を眺め俯して望めば松影藍水に寫し宛(あた)かも仙境にあるを覺えしむ。」と形容しています。

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 このほか、弘法の七不思議の言い伝えがあります。

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現存しているのは逆松と駒の足跡、そして、硯水

 岬の突端には、個人の方が作られた朱色のお堂の七浦大明神と泊崎弁財天がありました。

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 この後、天宝喜の厳島神社、高崎城のあった城山、小茎の八坂神社などを見て回りました。

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厳島神社と八坂神社

結構、盛りだくさんでしたが、茎崎公民館で反省会を行って、解散。ありがとうございました。

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歩いて発見!茎崎めぐり 22.10.17(日) その1

 アースデイつくばの合同イベントで、今年は、茎崎をめぐることとなり、参加しました。

  •  環境にかかわるつくば周辺の市民団体がゆるやかなネットワークをつくり、企業や行政とも手を結んで、毎年、4月22日にアースデイ(地球の日)を中心に、”Think Globally, Act Locally”を合言葉に、多彩な活動を繰り広げています。
  • これまで、地域めぐりとしては、つくば市内の小田、北条、筑波山麓、谷田部といった地域で歩いて発見をしてきており、それぞれマップが作成されています。

 朝9時につくば市のふれあいプラザに集合して、プラザの3階展望室から周辺を眺めながら、本日の講師のお一人であるMさんから、地域の概要について説明をしていただきました。

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 その後、プラザを出発して、牛久沼にあった渡し場の跡に行きました。そこで、本日の講師の一人であるKさんから、昭和8年に木の茎崎橋ができるまでは、この周辺では唯一の交通手段であったこと、こちら側(沼の西側)が永作の舟渡し、対岸側(沼の東側)が天神下の舟渡しで、昭和の初めころ渡し賃が2銭であったことなどの説明を受けました。

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 次に、旧茎崎村の大字の一つである下岩崎の集落センターを訪ねました。こうした集落センターには、昔の石造物が集められていることが多く、ここにも馬頭観音の石碑などの多くの石造物があったほか、観音堂がありました。
 この観音堂は、豊臣政権下、牛久城主となった由良国繁の母月海妙円尼が、かってのこの地方の領主であった岡見一族はじめ多くの戦死者の霊を弔うため、領内に七観音八薬師を建立したそうですが、そのひとつである岩崎下の観音が祀られているといわれています(なお、お堂は別なところ=旧字地蔵堂の近くにあったもので、ご本尊だけここに移されたともいわれているようです)。

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 八観音の一つに、旧谷田部の羽成観音がありますが、ここの天井画は「谷田部に過ぎたるもの三つあり、不動並木に広瀬周度、飯塚伊賀七」と歌われた蘭学者の広瀬周度が描いたとされており、谷田部マップでも紹介されています。

 このあと、守徳寺に伺いました。予定時間に遅れ、ご住職にご迷惑をおかけしてしまいましたが、寺宝の護摩の灰弁天像を拝見させていただきました。

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 この護摩の灰の弁天像、元は泊崎の弘法大師堂にあったものが、太子堂を管理している守徳寺で保管されるようになったそうです。

 表面上段中央には、宇賀弁財天、上段向かって右側には摩伽羅大黒、その他弁天十五童子に善財童子を加えた十六童子が描かれているようです。

 この護摩の灰弁天像は旧茎崎には、ほかに天宝喜の厳島神社と個人宅に二体あり、都合、三体同型のものがあるそうですが、全国的にも、羽田の玉川弁財天、磯山弁財天などいくつかあるようです。

 裏面には、空海上人の手形を捺し、各指に由来を記し、そして空海の判があるそうです。

   天長七年七月七日
   於江の島弁財天法
   秘 密 護 摩  空海 判
   一万座奉修行
   以其炭此形像作者也

 とてもきれいで感心しました。

 この後、貴船神社とその脇にある貝塚を見て回りました。畑が白くなるほどの貝殻などに、皆で感激。その貝塚のある畑を耕している方が偶々いらしたので、話を伺ったところ、道路工事に伴う遺跡調査の際、ナウマン象の骨が出土したそうです。その骨は、一体どこにいったのでしょうか?

 ここで、一回ふれあいプラザに戻って、車で泊崎へ

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高崎から菅間 22.10.7(木)

 今日は、高崎の孝学院前の旧道の突き当りにある道祖神 ⇒子育延命地蔵尊⇒郷中塚古墳⇒月読尊石碑⇒菅間の熊野神社を訪ねました。

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旧道の奥の道祖神さまの祠

 Kさんのお話では、数年前まで、孝学院の入り口には犬供養のザガマタがたてられていたようですが、見当たりませんでした。だんだん、昔の風習を伝える方がいなくなってしまったのでしょうか。

 ここから、高崎十字路へゆく途中、長屋門のあるお屋敷を過ぎると、子育延命地蔵堂があります。
 地蔵尊縁起によると、ここに祀られている子育延命地蔵尊は、奈良時代の高僧、行基(668年~749年2月23日、没後、朝廷から菩薩の称号が下され、行基菩薩といわれる)の作とされており、さらに、小田氏の始祖とされる八田知家(平安時代後期から鎌倉時代の1218年)の守り本尊であったとされていますが、一方で、現存する子育延命地蔵尊は、金箔・木造で、享保三年(1718)領主山口公寄進とあるとされています(茎崎村史P209など)。一体どのような経緯があったのでしょうか?
 なお、茎崎町史には、写真が掲載されています(P287)。

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地蔵堂と敷地内の石仏など

 そういえば、このお堂は享保三年(1718)に建てられたようですが、その向きは、道路に向いておらず、すぐ隣地の塀になってしまいなんとも不思議です。道路の位置が変更になったのか、明治初めに廃寺となった高雲山龍蔵寺成就院(文明五年・1473建立)の敷地は、寛政八年・1796の諸色改帳によると幅二十七間、奥行二十間あったとされますから(高嵜 その昔を語るP18)、お堂の前面も、もっと広かったのでしょう。

 次に、高崎十字路を渡り、茎崎第一小学校敷地にある郷中塚古墳と市の天然記念物に指定されているシイの木を訪ねました。

 茎崎第一小学校の校庭の塚は、元は現在の十倍近くあり、大日塚と呼ばれた古墳ともいわれています。郷中塚古墳群は5基あったといわれますが、現在残っているのは、ここと、校庭の南側の2か所のようです。

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校庭の南側の古墳

 この古墳の上には、宝篋印塔と石碑がありました。

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 宝篋印塔の方は、隅飾りのついた笠、塔身、基礎、返花座はあるのですが、相輪の部分などがなく、基礎も一つ多いようです。なお、二段目の基礎と思われる部分に格座間が二つあるので、関東形式のもののようです。 宝篋印塔の各部と名称

 石碑には、皈元という字が彫られていますが、戒名などに使うことがあるようなので、墓石なのかもしれません。なお、皈元=帰元(きげん)・・・皈は帰の異体字。死を意味する語。生滅界(この世)を脱して真寂の本元に還る意味で、『楞厳経(りょうごんきょう)』に「帰元ニ二路ナシ」とあるそうです。http://www.harasangyo.co.jp/reader/file73.html

 高崎十字路から菅間方向へ450mほどいった三叉路には月読尊の石碑がありました。 正面右側には、「右 大・・」⇒大井。左側には、「左 池の・・」⇒池の台となっており、裏面には、「明治三十九年」とあるようです。
 十六か村の村社として、三夜様として賑わっていた樋の沢の月読神社へお参りする際の道標として建てられたものでしょうか?

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 月読尊の石碑から菅間方向へ進むと、菅間ふれあいセンターが見えてきますが、そこには、熊野神社があります。
 茨城県神社庁には、熊野神社しか登録されていないようですが、日枝神社と合祀されており、神額をみると、大正甲子十三年一月二十六日 東宮裕仁親王(後の昭和天皇)御成婚記念と記されています。

 熊野神社の御祭神は、伊邪那岐命で、 建久二年(1191)九月五穀成就村民安泰のため、紀伊国熊野神社の分霊を遷祀と伝えられているそうです。日枝神社については、御祭神、由緒とも不明。一般的には、大山咋神(おほやまくひのかみ)を祭神としているようです。

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 ここには、古墳があったそうで、旧茎崎に3箇所ある『鼻の大きな大日様』が祀られていたようです。素朴な姿ですが、親しみがわきます。

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 疲れすぎないように、今日はここまで。

 

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城山・高崎 22.7.7(水)

 今日は、城山団地からスタート。ここは、岡見氏の支城である高崎城があったところで、当時は周囲を稲荷川沿いに広く水が入り込んでおり、さらに、堀や土塁をめぐらせていたようです。現在は、団地の造成で面影が残っていませんが、土塁の一部と思われるところや古い地図から当時が偲ばれます。

Img_0003_2Kさんの資料から

 要害とは、城砦とかとりでの意味であり、「要害」の部分に砦があったと思われます。古い写真を見ると、要害の部分はかなり高くなっていたようです。
 ①の部分には大手門があったとされ、②にあった神明様と字「観音」の③あたりにあった馬頭観音は、高崎の八坂神社に移されたといわれています。  

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.城の大手門跡、.八坂神社に移された神明さまと馬頭観音(それぞれ写真の右側)
  • 伊勢神宮の神霊(天照大御神)を分祀して祀る神社のことを神明社といい、「神明さま」とも呼ばれているようです。

 次は、大手門跡から北へ向かい、高崎十字路の手前にある「牛久城主岡見五郎兵衛せ逝去の地」と書かれた供養碑を見ました。
 これは、天正16(1588)年、この地域を支配していた岡見氏が下妻の多賀谷勢に攻められ、高見原で激戦になり、牛久城主であった岡見五郎兵衛が、その家来で高崎城主であった佐野内膳とともにこの地(字千部塚付近)で討ち死に(あるいは自刃)したことを悼んで、昭和14年に建立されたものだそうです(茎崎町史P228など)。

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 慰霊碑から北上し、県道143号谷田部牛久線を横切って、茎崎第一小学校へ。

 小学校の脇には、お三ツ目さまが祀られていましたが、柵に囲まれており近くによることはできませんでした。

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 小学校には、郷中塚古墳の一部が保存されていましたが、詳細はまた今度として、お隣の八坂神社へ。高崎の八坂神社は、平成21年6月に補改修されており、社殿のうえには覆屋(おおいや)が設けられ、見違えるようになっていました。

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  • 創建年不詳(天正2年(1574年)創建とする資料もある)
  • 祭神はスサノオノミコト
  • 古来「牛頭天王」と尊称されるも、明治年に八坂神社に改称
  • 旧村社
  • 境内社としては、稲荷神社、厳島神社、鹿島神社、八幡宮、猿田彦神社、神明神社、日枝神社、天満宮、愛宕神社が祀られています。

 一の鳥居と二の鳥居の間の長い参道の途中には、馬頭観世音の石碑がありました。昭和十九年に高崎馬車組合建之となっています。当時、谷田部牛久線には真鍮のラッパを「トテトテー」と鳴らしながら走った「トテ馬車」が走っていたそうですが、往時が偲ばれる石碑です。

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この後、道々、道祖神や道標などを見ながら、スタート地点に戻りました。

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小茎(おぐき) 22.6.11(金)

 今日は、小茎地区です。10時に茎崎公民館をスタート。最初は、旧茎崎町役場内の道路元標です。

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 大正時代に制定された旧道路法では、全国の市町村に一箇所設置することとなっており、高さ60cm、幅、奥行きともに25cmと決められており、天端には丸みがつけられることとなっていましたが、まさに、そのままの姿が残っています。旧茎崎では、大字小茎、字前原の182番地の村役場前に設置する旨、大正9年3月22日に告示 されています。

 このほか、忠魂碑、報国碑が据えられていました。

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 お隣の茎崎農協には、Kさんも把握していなかった報徳神社が祀られていましたが、由来などは不明ですが、二宮尊徳さんと関係しているのでしょうか?

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 西へ少し行くと、小茎の農村集落センターです。この敷地には、明治初年に廃寺となった福寿院があったところで、明治22年に旧村合併した当時の最初の茎崎村役場が設置されたそうです。

 集落センターを過ぎたところで左に曲がり、南に進んでいった最初の四つ角の北西側には、三面六臂の馬頭観音  、南西側には道祖神の石の祠がありました。

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馬頭観音(全体と拡大)、道祖神

 道をしばらく南に辿り、四つ角を西に曲がると、ここいらは、昔、天神山で、天神様を祭っていたそうですが、遠い昔に、高崎の八坂神社に移されたそうです。いまも、蛇神さまの石の祠があるそうですが、藪の中でとても入っていけません。

 道を牛久沼に下っていくと、天神下の渡し場があり、ここから、対岸の岩崎までの唯一の交通路として、永作の舟渡までを結んでいたそうです。
(天神の渡し場の説明文)2010_06_11_photo8_2

 次は、道を北に辿り、野田牛久線を横切ってさらに北に行くと、小茎の八坂神社です。

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八坂神社の鳥居と拝殿
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八坂神社由来

 由来では、気性の荒い神様であったことから、上岩崎で沼に流されたスサノオノミコトのご神体が、上流であるこの地に流れ着き、こちらで祀られるようになったとのことです。

 小茎の八坂神社が文明年間(1469~1487)に創建されたとするのに対し、上岩崎の日吉神社は、1398年頃創建された神社とされており、現在の御祭神は大山咋命(オオヤマクイノミコト)です。

 この頃は、岡見氏がこの近辺を支配していたとされますが、古河公方がおこり、なにかと騒がしかったことも関係しているのでしょうか?どのような経緯があるのか興味深いところです。

 さて、八坂神社から北に行き、突き当りを西を下りて、スサノオノミコトが流れ着いたという岩台(カニ台)を見ながら、森の里団地を抜けて、牛久沼のほとりには、水神宮の石碑がありました。この石碑は昭和44年に、さきほどの天神山の土などを持ってきておこなった牛久沼の干拓土地改良区の工事による森の里団地の造成の際に建てられたものです。

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 この後、道を戻り、消防署のほうへ歩いて、小茎611近辺の廻国供養塔、道標、さらにみのり幼稚園のほうに歩いて、小茎585近辺の道標などを見て歩きました。

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 全長約5.6km、茎崎公民館に戻ったのは12:30。お疲れ様でした。

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大井再訪 22.6.5(土)

 前回の樋の沢・大井探訪では廻りきれなかった箇所を訪れました。

 今回は、つくバスで、集落センターまで行き、スタートです。

 最初は、香取神社ですが、館野牛久線を北に少し戻り、南東に入っていくと、香取神社は畑の中にポツンと建っていました。このあたりは、下大井遺跡の区域であり、歩くと土器片があちこちに落ちており、さらに、香取神社の位置は大井古墳群の北端にあたるとされていますが、正確な位置は不明です(参考 埼群古墳館)。

※ 香取神社(以下、茎崎町史P316から)

  • 祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)
  • 配祀 大山咋命(おおやまぐいのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、菅原道真公
  • 延元三年(1336)十月、下総香取神宮の分霊を遷祀したと伝えられる。
  • 明治六年(1873)九月、地区内の日枝、厳島、北野の各神社を合併
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香取神社の鳥居と鳥居脇の道祖神さま

 道祖神は、道路側に背を向け、神社側を向いていましたが、なにか意味があるのでしょうか?また、石棺の一部と思われる石の上にのっていました。

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拝殿と境内にある三つの祠

 Kさんが平成8年に訪問したのちに、建て替えられており、だいぶ配置が変わっていました。拝殿がのっていた石は、いまは、脇の祠の土台となっていますが、ここにあったとされる古墳の石棺の石ではなく、『字「木口」(注:大井五十塚古墳群のあたり)に沢山の古墳があるが、伝承によれば、其の処に一部分露出していた平石を掘り出して神社まで運び、これを並べて土台としたと云う』(大井沿革P9)とされています。

 香取神社の次は、畑の中を歩いて、古くからあるという共同墓地やゴロゴロしているという土器片などを見に行きました。香取神社を少し下がった東側からみると、古墳のイメージが残っているでしょうか?

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神社の境内は木が覆っていました。

 土器片は、下大井のあたりは見かけられましたが、上大井のほうへ行くと、すっかり耕されていて、あまり見かけられませんでした。何箇所かある共同墓地では、様々な石造物が見られました。

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観音様やお地蔵様を浮き彫りにした石碑など

 この後、昔、石棺の中から剣が発見されたとする字「権現堂」あたりを見てみましたが、すでに民家となっており、残念ながら、痕跡は見つかりませんでした。

 まだまだ畑の広がっている小野川の西側の台地でどのような暮らしがおこなわれていたかに想いを馳せながら、今日はこれまで。

(参考)

茎崎町史 茎崎町史編纂委員会 H6.3.15
大井沿革今昔語り草 岡野春雄著 1983年(s58)4月

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樋の沢・大井地区 22.5.14(その2)

<大井地区続き>

 聖天神社の南側の農地などは、大井遺跡として、埋蔵文化財の包蔵地に指定されており、Kさんのお話では、昔は、土器片などがゴロゴロしていて、すぐに袋に1、2杯は集まったそうです。

※ 大井遺跡 いばらきデジマップ・大井遺跡

  • 所在地     大井594外
  • 種類      集落跡
  • 現況      畑,山林,墓地
  • 時代・時期  旧石・古墳・奈平・中世・近世

 聖天神社の前には、大井農村集落センターがあります。

  • この敷地の中に塚状に盛られたところがあり、そこには、つくば市で3箇所ある大日様の一つがひっそりと祀られていました。元は、集落センターの西北の端に祀られていたものが、移されたそうです。
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鼻の大きな大日様
  • 奥まったところで、しかも直接見えないところにあるので、知る人ぞ知るということなのでしょう。そのほかに、五輪塔と思われる石なども集められていました。塚状の上にも庚申様が祀られていました。
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盛土の上野庚申様
  • 大井の沿革によれば、昭和46年に大井研修センターの建築のために、それまであった「お小屋」と呼ばれる建物を取り壊し、さらにその西隣にあった大日塚などを現在の位置に再現したとのことです。
  • 従来の大日塚の前には、百万遍とか十九夜などの石仏が並べられ、側には、庚申塚もあったそうです。大日様は、塚の中に室を設けて、石仏を祀り、菰藁を編んで覆い、外部から入れないようにしていたそうです。
  • 大日様が祀られたのは戦国時代とも推定されており、庚申塚については、1740(元文5年)庚申の年に大日塚の側に小さな塚が作られたといわれています。

 集落センターから道なりに南にしばらく行くと、八幡神社があり、近くには、お地蔵様なども祀られていました。

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八幡神社とお地蔵様
  • 八幡神社のある塚も古墳だそうですが、道路の東側の昔の小字「権現堂」で発掘された横穴式の古墳から掘り出された剣を、お宮を作って八幡宮として祀ったものだそうです。
  • 残念ながら、この剣は、現在、行方不明だそうです。
  • 「権現堂」の古墳は、偶然発見されたもので、縦70cm、横60cm、厚さ10cm位の石が10個ほど石棺のように箱形に重ねられており、その中に遺体に添えるような形で剣があったといいます。
  • この平石は、香取神社の土台に使われたほか、『お小屋』の取り壊しの際に古井戸に埋められたといわれる。
    (以上、
    大井沿革による。)

 八幡神社の先を小川沿いに右に曲がるとすぐに408号線にでます。右に曲がってすぐの右手が今日の目玉の前方後円墳(5号墳)です。やや木が茂っていますが、形状は見て取れます。周溝を隔てて、円墳(7号墳)も竹やぶの中に見えました。

 さらに、408号線をわたり、森林総合研究所の敷地にも円墳(8号墳)があり、守衛さんに声をかけて見学させていただきました。ここでは、円墳が良好に保全されていました。

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大井五十塚古墳群5号墳と森林総合研究所内の8号墳

※ 大井五十塚古墳群 いばらきデジマップ・大井五十塚古墳群

  • 大井1731-1外
  • 前方後円墳2基、円墳9基以上の古墳群
  • 道路工事に伴い、s.48年に一部発掘調査。5号墳では、周溝、土師器、8号墳では、周溝、須恵器が出土したとのこと
    (以上、
    埼群古墳館による)

 10時15分にスタートして、ここまでで、2時間かかり、お腹もすいたので、408号(牛久学園通り)沿いの珍来でラーメンを食べて、更に30分ほどかけてスタート地点に戻ったら、1時過ぎでした。ちょっと頑張りすぎだったかもしれません。

 

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樋の沢・大井地区 22.5.14(その1)

 第1回目は、樋の沢・大井地区です。

10:15 高野台3丁目(高野台公園付近)からスタート

 南東へしばらく行くと鬱蒼とした林に突き当たります。後で調べると清遊亭となっていましたが、ネットではヒットせず、どのような施設なのかは不明。

 さらに、東方向へ行き、6号バイパスを横切って、少し北上し、右折すると三日月神社がありました。

※ 三日月神社(つくば市市之台107)

  • 江戸時代の初期、1611(慶長16)年、三日月不動明王を祀り、村内安泰と五穀豊穣を祈願。1703(元禄16)年、社殿を建立。
  • 1840(天保11)年、近くで発生した山火事で類焼したが、翌1841(天保12)年、再建。
  • 山火事で類焼したが、翌1841(天保12)年、再建。
  • 社殿の老朽化に伴い、1977(昭和52)年に改築された。
    (以上 
    つくば新聞・つくば市の神社から)
  • 神社台帳(茨城県神社庁)には未登録

 神社の近くには、丸太の鳥居が建てられていて、道祖神さまが祀られていました。

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 昔ながらの6mほどの道(茨城県道202号 館野牛久線)を牛久方面に行くと、左手に立派な家がありましたが、月読神社の神主さんのお住まい(社務所)だそうです。

※ 月読神社(つくば市樋の沢208)

  • 945(天慶8)年の創建と伝えられている。平将門の護持仏であった勢至菩薩が本尊。
  • 別名「三夜様」と呼ばれ、農業・開運の神として広く人々の信仰を集めてきた。
  • 現在の社殿は、1628(寛永5)年に建立された。
    (以上 
    つくば新聞・つくば市の神社から)
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月読神社 拝殿と参道

※ 筒粥(つつがい)神事

  • 神職による来年の作物の吉凶占い
  • 2010年は10月17日に占いが行われ、結果は、三夜祭、正月の縁日に披露されるとのこと
    つくば周辺伝統行事カレンダー」から
  • 大釜で粥を煮て、藁(葦が一般的なようです)をさして、その筒の中に米粒がどのくらい入っているかで、来年の作物を占うとのことで、その大釜を置いたといわれる石組みが残っていました。
Photo_3 植栽になっており、2箇所あるうちの拝殿に向かって右側
  • 調べてみると、諏訪大社(長野)のほか、関東甲信の神社が多いようです。
  • 対象とする作物の数で、入れる葦などの本数が異なっているようで、諏訪大社では44本、師岡熊野神社では27本、山荻神社では19本などとなっています。また、神事が行われる日もまちまちですが、1月14日の夜が多いようです。
  • いわれもいろいろです。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父の景行天皇が諸国巡幸の際に、五穀豊穣(ほうじょう)を祈ったことに由来するとされたり、村上天皇の御世からあるとされたり、江戸時代からのところもあるようです。

※ 月読神社の椎の木

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  • 月読神社には、大きな椎の木(スダジイ)があり、ご神木となっています。
  • つくば市のホームページでは、樹齢600~700年、樹高30m、樹幹の太さ約8m
  • 8mはややオーバーとしても市内でも屈指の巨樹なのに、環境省巨樹・巨木林データベースに入っておらず、市の指定も受けていないのは不思議です。ちなみに、巨樹の定義は、地上から130cmの位置で幹周(幹の円周)が300cm以上の樹木。
  • また、日本画家の石村雅幸さんが、月読神社の椎の木を描いて、第58回春の院展に「葉風光芒」として出品されていますが、とても素敵です。
    絵は 
    http://www.geocities.co.jp/Milano-Aoyama/7426/tukiyomi.jpg
  • (追記)石村さんは、平成16年にもこの樹を描いて、「天意考」という題で再興第89回院展に入選されているそうです。http://blogs.yahoo.co.jp/nihongayarou/39299926.html

 月読神社から少し行き、樋の沢地区から大井地区に入って間もなく、圏央道をくぐる道との三叉路となっていますが、そこから、南側に下大井遺跡が広がっています。埋蔵文化財の包蔵地のしては広いのですが、圏央道の関係で発掘調査をおこなったので、この近辺が発掘の中心となった模様です。

※ 下大井遺跡 いばらきデジタルマップ・下大井遺跡 

  • 小野川右岸の標高約21m前後の台地上に位置
  • 面積、4136.78㎡の畑から旧石器時代、縄文時代、古墳時代、平安時代、中世、近世の集落跡、塚、墓跡が発掘、遺構、遺物が出土。
  • 調査は平成11年4月1日より同年8月31日まで茨城県教育財団によって実施
  • 遺物の中には奈良時代に遠方からもたらされたと考えられる三彩陶器や、上家・上寺と書かれた奈良・平安時代の墨書土器、そして身分の高いお役人にしか着用が許されなかった革帯、青銅製のバックルがあり、常陸国風土記に記載された河内(かっち)郷の解明、つまり律令体制における郷庁がこの地にあり、役人が住んでいた可能性
  • 石岡に国府を置いた常陸国九郡の内の河内郡河内内郷の存在を解明する貴重な資料と期待
    以上、
    牛久沼ドットコム・歴史で観る牛久沼から

 三叉路から沿道に、白壁の旧家が見られる中少し行くと、聖天神社が見えてきます。ここまでが、下大井の集落でこれより南は上大井の集落です。
 地区の東側には小野川が流れていますが、上下は、山(川の上流)が上で、海(下流)が下となりそうなものですが、ここでは、逆になっているようにみえます。

 一説には、都に近いほうが上(あるいは前)とする説があるそうですが、大井沿革では、従来、上にあった集落が先に(室町中期)現在の位置に移転し、その後(室町末期)に、下の集落が現在の位置にそれぞれ移転したためであるとしています。(「大井沿革 今昔語り草」 岡野春雄著)

※ 聖天神社(つくば市大井1278)

  • 茨城県神社庁の神社台帳によると、ここには、稲荷神社があるはずなのですが、実際には、聖天神社が建っています。一体、どうなっているのでしょう?
  • 大井沿革によると、稲荷神社は上大井の集落が現在の位置に移転した室町中期に建立されたもので、神社台帳の位置ではなく、私有地の一隅に鎮座しているとのことです。  
  • さて、この神社は、大井沿革によると、織田政権が確立しようとしている1574(天正2年)に建立されたもので、当初は南東に向いて立てられていたものが、1710(宝永7年)に北西向けて、改修され、現在の位置に遷座されたものと推測されています。
  • また、大正時代に建立された聖徳太子像は、仏像であったため、併せ祀ることに異論もあったそうです。
  • 本尊は密仏・歓喜仏。縁結び、夫婦和合にご利益があるとされています(つくば新聞・つくば市の神社)。
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参道と聖徳太子像
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拝殿と本殿

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